いわき旅行2021 – その1

sunflower during sunset

晩夏のいわき

バスの座席に座り定刻を待っている時、運転手が「今日は暑いのでエアコンつけますね〜」と言いスイッチを入れた。ゴォーという音と共に冷気がふんわりとうなじと肩のあたりに降ってきた。
13:00になり、バスは動き出した。運転手が行き先を告げる。「当バスはこうせん経由、〜〜行きです」。それを聞いた時、心の中で(こうせん?こうせんて今から俺が行こうとしてる鉱泉のことだろうか…それとも専門高校的な方の高専だろうか…もし前者であれば歩かなくていいぞ…!しっかり耳を澄ましておかねば)と思った。聞き逃しては大変なので、いつも移動中に着けるイヤフォンも着けずに耳を運転手の方へ向け、前のめりで音に集中した。
道中窓の外を無意識に眺めていると、秋の穏やかな空と並ぶ住宅の中に突然宇宙船のような建造物が現れた。なんだこれ!と思ったと同時にすぐ、運転手の「次は競輪場前、競輪場前〜」という答えが聞こえた。
片道20分ほどの道のりだっただろうか。今か今かと“こうせん”を待つ。ついにその時が来た。「次は松〜高専、松〜高専ですー」。なんだ高校の方か~~と少しガッカリし、緊張状態だった身体中の力は抜け、座席にズアッと背中を預けた。結局元来の目的地であるショッピングモールの到着を待つことになった。

これはいわき、引いては福島に限らず、自分の田舎や他の地方でも同じ話だが、バスが高い。逆に東京は安い。多分客が多いからなせることなんだろうけど、固定額というのも地味に凄いことだ。地方バスはただ高いだけではなく、番号が振ってある整理券と、その番号に合わせて天井知らずで上がり続ける運賃のコンボも凶悪なのである。
そんなくだらない恐怖を感じつつ窓の外をボーッと眺めていたら、目的地のモールに着いた。モールから歩いて10分という時点で当たり前だが、周りは住宅がミッシリ並んでいるのには拍子抜けした。安宿誌の荒い白黒写真で見る分には、山林の中に佇む秘湯といった趣を勝手に感じていたからだ。というかホントにこんなところに鉱泉宿なんかあるんだろうかと、逆に場違いに思えるほどだった。グーグルマップを頼りに、モールを横断し大胆なショートカットをしつつ、7、8分も歩くと吉野谷鉱泉と書かれた看板が目に入った。説明文を読むと、周辺の住宅地の中央に位置する自然豊かな緑地帯、さらにその中央にその鉱泉は位置するようで、開湯されたのは江戸時代らしかった。ここだ!と思い、看板のすぐ横から伸びる、千と千尋の湯屋への道のような緑茂る道を進んで行った。途中左手に鍵の間にキラキラ光るものを感じたが、それは池の水面に反射する太陽光で、鴨たちがグワグワとのどかに遊泳していた。鴨たちを横目に更に100メートルほど行くと、並ぶ椰子の木の奥に趣のある日本家屋が見えてきた。着いた!とそれまで若干低空飛行気味だったテンションが上昇してきた。

pathway between green leafed trees

数棟の家屋たちへの入口には、“吉野谷鉱泉 1泊4200円”という看板が立っており、長期滞在割引もあるらしく、湯治宿としても使えそうだった。駐車場には車が2台停めてあり、あ、ちゃんと客がいるんだ、と少し安心しつつ、恐る恐る受付と思わしき引き戸ーメインエントランスーを申し訳程度にコンコンと中指の第二関節で叩いた後、ガラーと開けた。中に入ってみると、人の気配はあるがヒッソリとしている。呼び鈴でもあったかな、と周りを見回し始めた時、入口から伸びている廊下の奥から、主人らしきおじさんがノソノソと歩いてきた。「こんにちは〜」「あ、こんにちはっ。今日予約している湯渕です。」「はいはい、ちょっとお待ちくださいね。どうぞ、上がってください。スリッパそちらにありますんで。」「ありがとうございます、失礼します」少し不意打ちでもあったので、多少の不要な焦りを交えつつ、土間から客間の方へ上がった。「湯渕さんね。じゃあこの用紙に諸々書き込んでください」手渡されたプリント紙に個人情報を書き込む。「はいどうも。あとで色々案内するんですけど、ちょっと準備があるから少しここで待っててもらえる?」「あ、分かりました」少しの間をおいて、ご主人がまた話し始めた。「あのね、私は作家なんですよ」「えっ、そうなんですか?」「はい、小説なんかも書きましたし、あとは戦争や日本の防衛に関する本なんかを出してます。私の名前で調べたらインターネットに出てきますよ」「えぇ〜すごい」「日本はアメリカに国力で負けたなんて言ってますけど、そんなことではないんです。最も重要なことは研究力です。特攻隊を分けたのが良くなかった。あれを一回まとめて突っ込んでいればまだ勝機はあったかもしれない」「え、そうなんですか?」大胆な主張にギョッとしてしまった。「うん、だって小分けにしたらあっち側も「こういう手で来たか、ならこういう対応策を取ろう」ってなるでしょ?」「あぁーそれは確かにそうかもしれませんね」「あと昔サリン事件てあったでしょ?」「あ、ありましたね」先程の発言に加えてセンシティブな話題ということもあり、ぐっと唾を飲んだ。「あれも東京中にもっと一気大量に撒いてたらもっと被害は与えられたんですよ」「は、はあ」「オウムは最初ヘリを使って空からもサリンを撒くよていだったらしいんですけどね、なんで辞めたんだろうね」「いや〜、怖いですねぇ…」またも不意打ちを喰らった。まさかこんなカジュアルにこんなハードな話を聞くことになるとは。話が一区切りしたところで、奥から従業員らしき女性が歩いてきて「いらっしゃいませ」と軽く挨拶をしてきた。同時に主人が「はい、準備ができましたので行きましょうか」と廊下の方へ手で促した。

white wooden closed door

渋さ極まる宿

誰もが思い描くようなザ・田舎の古民家の板張りの廊下を主人について行く。中庭を囲むようにコの字型に大まかに3棟の建物が連なっているので、窓からは中庭を通して向かいの建物が見えるようになっている。その中庭には小柄な数本の枯れ木と、それらに囲まれるように中央に黄色い花ー植物に詳しくないので種類が分からないーが咲いており、全体的に彩度の低い景色の中のアクセントのようであった。建物間の繋ぎ目の渡り廊下ーといっても列車の連結部のような短さだがーを渡り別の家に入ると、「こちらが客室になります」と主人。どうやらこの家にメインの客室が集まっているらしかった。それぞれの部屋の引き戸の上には木の板が打ち付けられており、なにやら手書きで文字が書いてある。読んでみるとそれぞれ部屋の名前らしく、牡丹、紫陽花、薔薇など、花の名前で統一されているようだった。「今日は全部空いてるのでお好きなお部屋選んでください」そう言いながら主人がそれぞれの部屋の引き戸を開けていく。「こちらは布団タイプ、こちらはベッドタイプの部屋ですね」“薔薇”はベッドタイプで、なるほど、これらの花の中では洋風の感があるなと少し可愛らしく思った。しかし折角こういう和風の宿なので、ここはベッドでは味気無いと思い、「“紫陽花”でお願いします」と布団部屋を選んだ。

案内はここでは終わらず、次はこの宿の核でもある鉱泉の使用法の説明を受けた。温泉というものには幼き頃より慣れ親しんできたが、鉱泉というものには東京の上野にあるものに一度入ったくらいで、その時は鉱泉と温泉の違いも全く知らず、その上野の鉱泉がえらく熱かったのもあり、鉱泉とは温泉よりさらに熱い風呂、という完全に間違った認識が残った程度であった。実際には鉱泉はむしろ冷たい。冷たい水に温泉に入っているような成分が入っているので、それを温めて入浴できるようにしているのだ。かなり荒々しい説明はここらへんにして、詳しい説明はネットにいくらでも転がっているので、そちらで参照していただければと思う。この吉野谷鉱泉の成分や泉質・・・その類の情報は全く見ていなかった。これもネットにあるかもしれないので、そちらで確認していただきたい。主人に教えてもらったのは、時間によって使える湯舟ー二つあるが一度に使えるのは一つー、女専用か混浴、泊り客か立ち寄り客、などの入れ替わりが発生するということだった。あと湯を沸かしてほしいときは、浴室のある建物の裏に向かって「もっと湯を沸かせ」と指示しろとも教えられた。どういうことかと言えば、声をかければ従業員の方が火を焚き湯を沸かしてくれるという、まるで昔の殿様のごときシステムなのである。しかも声をかけても反応が無い時は、脱衣所においてある鐘を打ち鳴らせばその音は宿全体に鳴り響き、すぐ従業員が駆けつけるらしい。そんなでかい音を鳴らして他の客などの迷惑にならないのかと一瞬憂慮したが、入浴できる時間は19時までと比較的浅い時間までなので、ギリギリ大丈夫なのかもと思い直した。

主人は一通り宿の説明を終え、自分は”紫陽花”へ戻った。六畳の畳の和室、入って左手に布団が敷かれ、その手前に鏡台、右手にはこたつとその奥にはテレビとヒーターと、コンパクトながら日本人に必要なものが全て揃っており、ミニマリストならこんな部屋で長期滞在するなんてのも良いんだろうな、などと思ったりした。普段洋室でベッド暮らしというのもあり、和室と布団というのは新鮮でもありながら、やはり大変落ち着く。荷解きをし、本や充電器などをこたつの上に置き、布団に寝転んだ。いや〜いいもんだ、と一息つきつつ、持ってきたつげ義春の“貧困旅行記”の続きを読み始めた。この本は今回の安宿旅のきっかけのひとつにもなった本で、つげさんの独特の感性を通して一昔前の旅の様子が思い浮かべられ、大変好きな本なのであった。つげさんの感性はところどころ「そういうこと感じるか〜」と斬新さもありつつ、割とシンパシーも感じやすい。それは恐らく彼の感覚が割と現代の若い世代と似ているからかもしれない。かなり偏見ではあるが、自分は今の高齢者というのはイケイケどんどんで団体主義で個人個人の内面性なんていうのは二の次三の次、といった印象を持っていた。しかしつげさんの本を読む中で、もちろん彼らにもそれぞれ喜怒哀楽、楽しさや苦しさはあったわけで、それを乗り越えつつ突き進んできたからそういった面が見えにくくなっていたのかもと気付いたりした。特に彼は作家ということもあり、感受性が団体より個として突出しているというのもあるかもしれない。あと書きながら思い出したが、昔“吾輩は猫である”を読んだ時にも同じことを感じた。割と現代人(特に陰キャ)と同じ感覚だったんだなと。

photo of a calico cat lying on the floor

話が逸れてしまったので宿に意識を戻す。そんな感じで貧困旅行記を読んでいると、コンコンと戸の横の柱?を叩く音が聞こえ、開けるとまた違うおじさんが立っていた。先程の主人より幾分長身だが、同じように眼鏡をかけている。

その2へ続く…

熊野

waterfalls in forest

熊野への誘惑

あまり雨も降らず、今週末の関東は30℃超えという梅雨らしからぬ初夏。
昨今の情勢で電気代はアップしているが、エアコン無しでは生きていけないので細々と稼働しつつなんとか凌いでいる。

今年の初め頃に熊野古道に関する本を読んでから、ずっと熊野への憧れが続いている。
伊勢神宮は一昨年尋ねたのだが、特になんの知識も無く漠然と観光しただけだったのが悔やまれる。ちなみにあの時は浜松→フェリーで伊勢神宮→松坂で1泊→高速船で津からセントレアへ→名古屋、と、三河湾一周がテーマだった。

熊野古道といえば世界遺産にも登録された有名な観光地だが、正直自分は本を読む前まで、なんか自然豊かで綺麗な東北の獣道、といった酷い勘違いをしていた。何故熊野に興味を持ったかというキッカケについてはよく覚えていないが、おそらく単に那智の滝が綺麗だから行ってみたい、程度のものだった気がする。

言うまでもなく、熊野古道というのは昔々の人々が熊野三山と呼ばれる3つの寺を回る時に使った道であり、それも伊勢神宮や京など複数の方面からの道があり、それぞれに名前が付いている。

紀伊路(渡辺津 – 田辺)

小辺路(高野山 – 熊野三山、約70km)

中辺路(田辺 – 熊野三山)

大辺路(田辺 – 串本 – 熊野三山、約120km)

伊勢路(伊勢神宮 – 熊野三山、約160km)

大峯奥駈道 (吉野 – 熊野三山)

– Wikipediaより引用

ちなみに読んだ本というのは五来重さんの“熊野詣”という本。ちょっと記憶が怪しくザックリとした話しかできないが、まず伊勢神宮=生の世界、熊野=死の世界という対比させつつ解説されているところがとても面白くて、まるでファンタジーの世界だなと思った。実際昔の庶民は、まずお伊勢参りということで伊勢神宮へ旅の末に参詣した後、熊野古道を使って熊野三山まで訪ねていく人たちも少なくなかったらしく、いかにこの二ヶ所がセットとして、表裏一体で扱われていたのかが分かる。

人間の底力

熊野には他にも魅力が詰まっており、その一つに補陀落渡海(ふだらくとかい)というなんともおどろおどろしいというか、字面の強い風習がある。どんなものかと言うと、僧侶(たまに例外的に一般人も)が四方に鳥居を携えた方舟に1か月分の食糧と共に入り、その入り口を他の者たちが釘で打ち付けて完全に閉じ込める。少し沖まで他の船で引っ張って行き、その後は大海原に向かって放つ。方舟の主は海流に乗って遥か補陀落(ポタラクとも読む)という楽園の国へ辿り着くと伝えられていた。食糧は長旅のためという理屈は分かるが、出口を固めるのは楽園に辿り着くというのには明らかに無駄というか、不便でしかない。やはり現実的には即神仏と同じで、自己犠牲という尊い行為によって世に安寧秩序をもたらしたいという側面が主だったんだろう。

body of water during golden hour

熊野には他にも面白い話が沢山あるが、それは五来さんの本を読んでもらうとして、あと一つだけ書かせてもらう。それは一遍というお坊さんについてだ。彼は時宗という仏教の一派を立ち上げ、やがてその教えは日本中で大人気となるのだが、一遍の悟りというプロセスで大きな役割を果たしたのが熊野の地だった。彼は念仏の札を配りながら東北から九州まで日本全国を行脚しており、熊野もその例外ではなかった。悟りのストーリーについてはこちらのサイトで詳しく書いてくださっているので、ぜひ読んでみてほしい。悟りを開いた一遍は老若男女問わず信者たちを引き連れ、更に各地を巡り教えを説いていった。その教えの中には弱者救済の趣もあり、信者たちは率先してその手を差し出した。そこにはらい病と言われる人たちも含まれていた。

当時の障害者たちの苦難は想像に難くない。特にらい病というのは近代においてさえも想像を絶する差別、敵意を向けられてきたものだ。五来さんによるとその当時症状が少しでも表れた者は、真夜中家族たちに見送られながら、泣く泣く村を出なければならなかったと言う。熊野はそういう者たちの希望の地でもあり、彼らは変化しゆく体で命からがら彼の地を目指した。手足を動かすこともままならなくなった者は乳母車のようなものに乗るのだが、前述の時宗の信者たちはその車を押すことは万もの徳を積むのと同義と信じ、進んで旅を共にした。先ほどは弱者救済とは言ったが、信者として一遍について行った者たちも決して強者などではなく、むしろ彼らも我々のような庶民、弱者だったのではないかと思う。現代のように比較的物が簡単に手に入るわけでもない時代、徳が積めるという多少利己的なメリットがあるとはいえ、互助の概念がしっかり根付いていたのは素晴らしいし、人間の力を感じる話だと思う。

どの道を行く

すっかり前置きというか、バックストーリーが長くなってしまったが、悩ましいのはどう熊野を巡るかということである。できることなら2、3ヶ月ほど休んでガッツリ歩きで巡りたいところだがそうもいかない。ということでグンと短縮して2、3日ほどを想定する。

関東方面から行くとなると、A→羽田から白浜空港まで飛び、レンタカーで熊野めぐり or B→新幹線&在来線で伊勢まで行き、お参りした後レンタカーで熊野めぐり、の2パターンかなと思っている。Aの方が手っ取り早いが、かつての庶民たちが巡った伊勢→熊野という順ではなくなる。あと熊野には温泉もあるようで、温泉大好き人間としてはそれも見逃せない。なんでも湯の峰温泉という温泉街にはつぼ湯という、小栗判官という人物が浸かったところ、たちまち病から復活したという伝説の湯もあるらしい。

ん〜〜悩ましい!(おわり)